旧古河庭園 |
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春バラの最後ということで、久しぶりの東京で過ごす週末は、ばら園めぐりを考えた。昼に次女に池袋のホテルで昼食をご馳走し、15時に別れた後、南北線の西ヶ原にある「旧古河庭園」に向かう。早い時間帯であれば、駒込の「六義園」に立ち寄る予定だったが、難しそうなので、旧古河庭園に向かう。西ヶ原からは、10分もかからない。![]() ![]() ![]() ![]() 無期限と言う六義園との共通券を買い求め、入ると、コンサートが終わったばかりで大勢の人であった。ばら薗は思ったより広くなかったが、洋館と合い、素晴らしい。残念ながら、見ごろは過ぎていたが、見ごろの花を求め、写真撮影に努める。 ![]() ![]() ここは、日本庭園も素晴らしく、案内によると、「もと明治の元勲・陸奥宗光の別邸だったが、次男が古河財閥の養子になった時、古河家の所有となった。現在の洋館と洋風庭園の設計者は、英国人ジョサイア コンドル博士(1852〜1920)。博士は当園以外にも、旧岩崎邸庭園洋館、鹿鳴館、ニコライ堂などを設計し、我が国の建築界に多大な貢献をした。日本庭園の作庭者は、京都の庭師植治こと小川治兵衛(1860〜1933)であり、彼は当園以外にも、山県有朋の京都別邸である無鄰菴、平安神宮神苑、円山公園、南禅寺界隈の財界人の別荘庭園などを作庭し、造園界に多大な貢献をした。戦後、国へ所有権が移ったが、地元の要望などを取り入れて、東京都が国から無償で借り受け、一般公開された。数少ない大正初期の庭園の原型を留める貴重な存在で、伝統的な手法と近代的な技術の融和により、和洋の見事な調和を実現している秀逸で代表的な事例であり、また、現存する近代の庭園の中でも、極めて良好に保存されている数少ない重要な事例であるとして、平成18年1月26日に文化財保護法により国の名勝指定を受けた。」とある。 ここから、桜の名所の飛鳥山公園を抜け、南北線の王子駅に向かう。ここの桜も大木で、さすがに江戸時代からの名所だ。ただ、江戸時代はソメイヨシノでなく、山桜だったようだが。次女に教えられた無料のケーブルカーは時間外で残念ながら休止していた。 メトロの一日券を買っていたので、東京の散歩ガイドで気になっていた、本郷界隈を歩く。南北線の東大前から後楽園への道だ。東大農学部前から、鳳明館森川別館を目指し、左折し、求道会館前を通り、徳田秋声旧宅に向かう。旧宅はいかにも昭和の建物だ。石川啄木の「東海の小島の磯の白砂に 我泣き濡れて蟹とたわむる」の歌碑のある太栄館は、補修をしていて、レトロ感は少し薄いが、学生の団体等が宿泊しているようだ。 ![]() ![]() 鳳明館と同別館は、何ともいえない情緒を醸し出し、別館の門前に浴衣姿の団体客がすずんでいた。見れば、入浴・浴衣姿宴会というのもあるようだ。別館の灯篭と庭が和風旅館の良さを存分に伝える。 ![]() 樋口一葉が通ったという元伊勢屋質店、菊坂辺りは、もっと古い家が多いかと思ったが、それほどでもなかった。大正から昭和10年代にかけて、多くの文学者、学者、芸術家、思想家たちが滞在し、ここを舞台に数々のエピソードを残したという菊富士ホテル跡。主な止宿者には、石川 淳、宇野千代、尾崎士郎、坂口安吾、谷崎潤一郎、正宗白鳥、竹久夢二、三木 清など当時のそうそうたる人達だ。 ![]() 本妙寺坂を通り、坪内逍遥旧居跡を見る。大きな屋敷に驚く。表札名は「坪内」ではなかった。炭団坂は、案内によると「本郷台地から菊坂の谷へと下る急な坂である。名前の由来は「ここは炭団などを商売にする者が多かった」とか「切り立った急な坂で転び落ちた者がいた」ということからつけられたといわれている。台地の北側の斜面を下る坂のためにじめじめしていた。今のように階段や手すりがないことは、特に雨上がりには炭団のように転び落ち泥だらけになってしまったことであろう。この坂を上りつめた右側の崖の上に、坪内逍遥が明治17年(1884)から20年(1887)まで住み、「小説神髄」や「当世書生気質」を発表した。」とあった。 ![]() それにしても坂が多い。下りきり、左手に進むと菊坂下の細い道で古い家屋に若い女性が帰る姿を見ると、不思議な気がする。菊水湯は、よく残っているなぁという昔ながらの銭湯だ。そこからの鐙坂には、金田一京介が住んだというレトロな建物等昭和の香りがする建物が多い。 鐙坂を上りきり右折し下れば、白山通りだった。折りしも夕暮れ。近代的な建物の並ぶ一角に出ると、タイムスリップしてきたかのような錯覚にとらわれた。 |